時代とともにスタイルを大きく変えてきた演劇界。「演劇」と一口に言っても、古典から商業演劇、新劇、小劇場、舞踏など、さまざまなジャンルが併存しているが、どのジャンルにおいても「一部のマニア」たちによる専門的でニッチな娯楽という印象が拭えない。生活様式の変化やテクノロジーの発達に伴い様々な娯楽のカタチが生まれる昨今、「演劇」はかつてほどの勢いが感じられないようにも見える。
そんななか、小劇場を拠点とした「小劇場演劇」の領域から、演劇界全体、牽いては日本の総合芸術の在り方自体を大きく覆そうと名乗りを上げるのが「マームとジプシー」主宰の藤田貴大だ。30歳という若さながら、日常的な話し言葉で舞台を演出する会話劇をルーツに、彼にしか編み出せない独特の表現スタイルや文体、リズム、そして異ジャンルとの大胆なコラボレーションを次々と繰り広げ、瞬く間にこれからの演劇界を牽引する存在となった。
「演劇が最強」だと語る藤田が構想する、これからの演劇とその挑戦に迫りたい。
「演劇も、お店も、デモも、切り離して考えちゃいけない。」
昨年12月、藤田はひとつの大きな「挑戦」を果たした。「サブカルチャーの先駆者」とも呼ばれるいまは亡き伝説の劇作家・寺山修司の代表作『書を捨てよ、町へ出よう』を大胆不敵にリメイクした同タイトル作品を発表したのである。
この果敢なプロジェクトのなかで藤田がみせたのは「虚構と現実の交錯」だった。舞台装置の「設営」から幕を開けた当作は、若さゆえにはかない青年の悲壮劇が繰り広げられる一方で、音楽、ファッションショー、ビデオレター、さらにはコントまでが唐突に盛り込まれていた。にもかかわらずそれぞれがしっかりストーリーに溶け込み、確実に「ここにしかない世界」が築かれている。ある種、寺山修司のストーリ-に頼らない、という強い姿勢がまざまざと感じられたこの作品において、藤田が表現したかった世界とはなんだったのだろう。
「演劇といったら『演目をみる』という伝統があって、もちろん皆さん演目をみにくるんだけど、僕はあまりそういう風に構えたくないんですよ。
いまの時代、家にいながらなんでもできるじゃないですか。本も、音楽も、あらゆるものがインターネットを通じて買えるし、映画だってHuluに加入しちゃえば簡単にみることができる。いろんなもののあり方が変わってきているなかで、演劇ってやっぱりそうはいかないところがあって、家から足を運ばせなければいけない。しかも、家から出てもらうことのハードルがどんどん高くなってきていると思うんですよ。まずはそこから考えないことには、演劇ってやっていても意味がないんじゃないかなと思っているんです」
目まぐるしい速度で世の中のシステムが変わりゆくなか、幼少時代に芝居をはじめ、これまでの人生を演劇と心中してきたともいえる藤田。そんな彼ならではの、社会そのものさえ「演出空間」と捉える時代感覚が、そこにはあった。
「僕、25歳までの3年間くらい、ヴィレッジヴァンガードという本屋さんでバイトをしていたんですけど、そこでは『店づくり』は計算しながらやるんです。本を作者順に並べるんじゃなくて、店員のオススメをガンガン平積みしていくんだけど、そこにちゃんと意図があるんです。その頃からうっすら思っていたことなんですけど、演目をみることに4500円のチケット代がかかるとして、その内訳を細かく考えたときに、ぼくの演目がみたいという目的だけじゃない人がいてもいいはずなんです。
寺山修司とか藤田貴大とか、物語とか関係なく、その衣装だけをみに来る人がいてもいいし、音楽だけを聴きに来てもいい。それでもちゃんと成立している作品でありたいし、来た人が自由に何をみるかを選んでいい。まさに『お店』をつくるように演目を仕立てていくことが、これまで考えてきたすべてで、去年の作品は特に強く意識しました」
家に籠っていても娯楽の消費が充分にできてしまう私たち。ゆえに「わざわざ」家から出て劇場に足を運ぶ、という行為のハードルは確実に高まり、その目的も複雑化するだろう。しかし、だからこそ藤田は「チャンスだ」と目を輝かせる。
「家のなかでなんだってできるようになったら、人ってなんだってできることに満足しなくなってくる。そうなったときに、外に出るという行為がひとつのステイタスにもなると思うし、そこをどう促していくのかを考えて工夫をしていかなきゃいけない。だから、僕が期待しているのは、お店も、演劇も、デモさえも、家から出ることを促すための工夫がなされた、マニアックで凝ったものがどんどん出てくるんじゃないか、ということ。お店も、演劇も、デモも切り離して考えちゃだめと思うんです」
藤田はこれまでの作品で、家から出て行くという「ひとりの気持ち」のなかの“演出”をなによりも優先しているのかもしれない。
「先入観」を、裏切り、超える。
藤田が手がける作品の持ち味として、常々語られる演出技法に「リフレイン」と呼ばれるものがある。同じセリフを、別の視点や角度から幾度も、時間軸とともに繰り返すこの表現は、繰り返される度に言葉に熱量が足され、観る者の感情までも揺さぶる。ここで生まれる「エモーショナル性」に浸りたいがゆえに、彼の演目に足を運ぶ観客は多い。彼はこの「リフレイン」という技法を、家から劇場まで足を運ばせるための役割として、どのように捉えているのだろうか。
「リフレインはスタイルでは全然なくて、『伝えたい』とか『泣いてほしい』とかでもなくて、みに来てくれた人が何をどうみるのか、もっと全体的なところを考えたときに、これをみて泣く人もいれば笑う人もいていいよ、と思っています。なんとなく、演劇としてマームとジプシーはエモーショナルだというイメージがあったと思うけれど、もうちょっと全体を楽しんでいかないと楽しめないものになってきているんじゃないかなと思っているんです。
だから、行けば泣ける、みたいな感覚をなくしていきたいなって葛藤していて。例えば、コマーシャルが巧みな映画って、実際観たらつまらないっていう残念なパターンが結構ありますよね(笑)。その先入観を散らしていく感じだと思うんです。コマーシャルって先入観を植え付けるわけですよね。でもその先入観の植え付け方が具体的になってしまうと、多分先入観からの引き算にしかならないんですね」
20代でまだ無名だったころは、先入観を植え付けようと躍起になっていた、と語る藤田。しかし、20代後半に差し掛かり、先入観による「締め付け」を徐々に散らし、演劇を見終えてようやく全貌がきちんとわかる、という方向に切り替える。行ってみなきゃわからないという「余白」を残すこと、その重大性に気が付いたのだ。
「だからこそ、先入観以上に、わけのわからないものになっているんだけど、そこに圧倒されるだけで帰るとか、全然思っていたのと違うんだけどその感覚が引き算じゃなくて足し算だったとか。『想像以上だった』みたいな感想はありきたりだけど、そこに賭けていくみたいなところはあります。だから、また反復するんでしょ?リフレインするんでしょ?っていうのもひとつの先入観なんだけど、その反復の仕方が、マイナスの意味じゃなくて全然変わってきていたりするのもひとつの見せ方かな、と思っています」
こういった「伝え方」の変化にも、やはり藤田の時代感覚が背景にあった。
「『行ってみたらつまんなかった』とか、そういう残念なことをしてはいけない時代になってきている気がするんです。情報が速くなってきている分、かなりシビアになってきていると思うんですよ。だけど、だからこそ、そのあたりをなんにも考えてないものは自然に淘汰されて、『味』のあるものだけが残る世の中になっていくんじゃないかなとも思います。そうなってくると、結構面白い独特な日本になってくんじゃないかな』
リフレインは藤田の作品の強烈な武器だ。しかしだからこそ、その先入観を大きく裏切り、そして超えることで、私たちをいつも新たに圧巻させなければならない。藤田にとって、作品を発表するということは、自らが築いた先入観との闘争なのだ。それは想像を絶するほど身をすり減らす作業であろう。しかしだからこそ、これからも藤田は、心地よく私たちを「置いていけぼり」にしながら、まったく新しい世界の断片を見せてくれるのだ。
<後編に続く>
取材・テキスト / 田中佳佑
写真 / 中野修也
マームとジプシー
http://mum-gypsy.com