日本では、13人に1人がLGBT(セクシュアル・マイノリティ)に該当すると言われているが、まだその認知と理解は広がっていない。そんななか、東小雪と増原裕子の同性カップルは、2015年11月5日、渋谷区で公布された「パートナーシップ証明書」の第一号を受け取った。日本もようやく多様性を認める社会に向けて歩を進めたが、彼女たちはその日までの長い道のりをどう乗り越えてきたのか?“普通じゃない”自分のセクシュアリティ(性のあり方)と向き合い続けてきた2人の葛藤と、その半生に迫る。

“普通の人生”からはじき出されていく自分

「“普通”からはじき出されていてよかった、と今は思いますよ。レズビアンであるというだけで“普通じゃない”し、社会規範からも外れているので、そうせざるを得なかったのだけれど、自分らしい人生を、自由に選ぶことができたのだと思うから」

東小雪が自分の“普通じゃない”セクシュアリティと人生をそう肯定できるようになるまでには、長い時間がかかった。

東が自分のセクシュアリティに気づいたのは高校2年生の春。中学校から仲の良かった女友だちからテスト勉強中に「実は女の子と付き合っている」と泣きながらカミングアウトされた。それはいけないことなのではないかと胸がざわつくと同時に、自分は女の子のことが好きだということを知る。

東小雪さん

「それまで男の子に恋愛感情を抱いたことはなかったけれど、大人になったら普通に男性を好きになって、結婚をして、子どもを産むのだろうな、当時は漠然とそう思っていました。でも親友がカミングアウトしてくれたことで、私が彼女に対して抱いている憧れや好きだという気持ちは恋愛感情だったということに気がついたのです」

彼女と一緒に図書室で同性愛について調べた。自分のセクシュアリティについて知れば知るほど、女の人が好きである以上、結婚もできないし、子どもも作れないし、家族も持てない…… “普通の人生”からはじき出されていく自分がいた。

「特に私が生まれ育った金沢は土地柄か、女性は結婚をして子どもを持つという人生しかないように見えたのです。そういう“普通”と比べて、なんとなく持っていたフレームからはじきだされる経験を10代でするのは本当に辛いことですよ。思春期で心が動く時期に、自分のセクシュアリティについて悩んでいたし、親不孝だ、私が悪いのだ、と自分を責めてばかりでした。情報もなかったし、助けてくれる大人も、お手本になるような人もいなかったから」

自分らしくあろうとすると親を悲しませてしまう

東のパートナーである増原裕子が自分のセクシュアリティに気づいたのは小学校4年生の時だった。

「男の子も好きなのだけれど、女の子も好き。おかしいぞと思い、自分の気持ちに気づいていたけれど認めたくはなかった。自分の周りにそんな人はいなかったし、テレビのなかではからかわれているし、学校でも「レズ」とか「ホモ」とか言っていじめもあった。自分が該当しないように、バレないように、いつも緊張して気を遣っていました」

10歳から22歳になるまでの12年間、増原は自分のセクシュアリティを誰ひとりにも打ち明けることなく必死に隠し続けた。誰にも言えない孤独感と周囲にウソをついているような罪悪感。一人で抱えるには重たすぎる悩みに限界がきた大学4年時、卒業旅行で親しい友人にだけ打ち明けた。彼女たちが受け入れてくれたことで、身近な人たちには徐々にカミングアウトすることができたが、一番近い存在である親にはどうしても言えなかった。

「両親は、普通に結婚して子どもを産むという人生を望んでいると思っていたので、親を悲しませるのではないかという思いが強くて……」

増原は大学卒業後、1年間パリへ留学。ちょうどその頃、フランスでPACS(民事連帯契約)という同性・異性問わず共同生活を営むカップルに、法的な婚姻関係と同等の権利を認める制度ができた。日本とは違う開放感を味わい、増原は初めて自分のセクシュアリティに自信を持つことができた。日本からパリへ親が訪ねてきたのは、そんな時だった。

「パリで母親に『あなたって女の子のことが好きなの?』と聞かれちゃって。必死に隠していたけどバレていたのですね。否定してほしかったと思うんですけど、正直に答えたら、親がショックを受けてしまって。その時、自分らしく幸せになろうとすると親を悲しませてしまうのだ、と私自身もショックを受けました」

増原裕子さん

自分のセクシュアリティを解放できたパリから帰国して10年間、本当の自分を隠してしまわざるを得ない日本の状況の中で、増原の葛藤は続いた。

「普通を装うことに慣れてしまっていたけれど、気持ちはどうもしっくりこない。自分らしい生き方なのかよくわからない、違和感のある日々を送っていた。レズビアンって言わなければわからない、見えないマイノリティだから。相手にウソをついて、違う自分に見られるのが窮屈でイヤでした」

自分のセクシュアリティに“プライド”を持つ

増原は大学院卒業後、会計事務所に勤めながら税理士資格に挑戦したりと、仕事は順調だった。安定した日々を送るなかで、本当の自分を伝えて、社会にアクションを起こしたいという気持ちが強くなっていく。

「自分に対して自信を持ち始めていたけれど、自分のセクシュアリティに対する“プライド”は持っていませんでした。小さい頃からいけないことだと思い込んで、否定する気持ちがあったから、誰にも言えない。苦しかった。海外の先人たちの影響もあって、自分のセクシュアリティに誇りを持つべき、“プライド”と言えるほうに舵を切ろうと思ったのです」

当時、アメリカでゲイであることを公言して政治家になったハーヴェイ・ミルクの生涯を描いた伝記映画が公開されるなど、海外を中心にLGBTであることに“プライド”を持っている先人たちがいた。彼らに背中を押されて増原は33歳の時に、公にカミングアウトをし、声を上げて社会的なアクションを起こそうとLGBTコミュニティに積極的に参加した。

東も、自分のセクシュアリティに“プライド”を持てるようになったのはつい最近のことだという。

「2009年頃に初めて東京のプライドパレードに参加したときに、あるレズビアンの子が『Happy Pride!』とすごく明るい声でハイタッチをしてくれたのです。晴れ渡った代々木公園で、誇らしいんだという気持ちで、お祝いすることにすごく驚いた。初めはしっくりこなくて、違和感しかなかったですよ。なんなんだろうって。だってやっぱり、当時は同性愛者はマイノリティで、社会的な弱者だったり、被害者だったりすると思っていたわけですから。」

でも今は、みんな辛い時期は共通してあったと思うけれど、いつまでも日陰に留まっているのではなくて、光を浴びて堂々として生きたいという“プライド”が持つ意味がよくわかります」

プライドパレード参加の様子

東は2010年の秋にツイッターを使ってカミングアウト。これまで隠してきた、レズビアンであることと宝塚出身であることを同時に公表した。

「どこか一部を隠していると人間関係を築きにくいんですよ。腹を割って話せないし、面倒なことも多い。自分のことを知ってもらったほうが信頼関係を築いていけるんじゃないかと思って、カミングアウトすることを決めました」

一人じゃない。仲間とつながることで、自分のマイノリティ性を受け入れられるようになった。

「LGBTの文脈での“プライド”には、自分自身のことだけではなくて、つながりのなかで、仲間も祝福するという意味も含まれています。自分以外の人の多様性も受け入れる。プライドパレードは、違いを認め合って、たたえ合って、喜び合う場なんですね」(増原)

“普通”からはじき出されたから向き合えた“自分らしさ”

「30歳になってようやく、“普通”なんてなくて、誰もがマイノリティ性を抱えていて、外から与えられた“普通”に自分がはまろうとしたり、誰かをはめようとしたりすると苦しくなるということがわかりました」

東は幼いころから、普通ってなんだ?と考え、悩みもがきながら自分のセクシュアリティとアイデンティティと向き合い続けてきた。“普通”からはじき出されていた自分だからこそ、得られるものがあったと今なら思える。

「現代社会は、若い女性にかかるプレッシャーがすごく大きいですよね。何歳までに結婚をして、子どもを産んで、専業主婦でも働いていても、多くを求められる。私は初めからその見えない“社会のレール”からはずれていたから、年齢とか条件とかではなく、この人と一緒にいたい、彼女とだから子どもがほしい、自分はこれがしたい、という基準で人生を選ぶことができている。昔はすごく辛い経験だったけれど、今はそのことを幸せに思います」(東)

家庭や学校での教育、社会に溢れる情報によって知らず知らずのうちに思い込んでいる“普通”という価値観。そこからズレていたら“マイノリティ”として、はじき出されてしまうこともある。その差に悩み続けてきた2人は、そこから離れることこそ“自分らしさ”と表現する。

「“普通”は社会や自分以外の誰かが決めるもの、“自分らしさ”は自分自身が決めるもの。親や社会が求める生き方と自分がどうやって生きていきたいか、それがたまたま一致する場合もあるけれど、そのギャップに苦しむ人たちは多いと思う。私たちはそのギャップを埋めるためにカミングアウトをして、自分らしく生きる道を選びました」(増原)

“普通”ではないマイノリティ、異端児である自分や他人を受け入れる。そこからしか、自分らしい人生を送ることも、新しい挑戦をすることもできないのかもしれない。

想像を超えた未来が切り拓かれた瞬間

ちょうど同じ頃に自らのセクシュアリティと正面から向き合い、カミングアウトをした2人はLGBTコミュニティで出会い、東の一目惚れがきっかけで2011年夏に付き合い始めた。そして、2013年春に東京ディズニーリゾートで2人ともウエディングドレスを着て結婚式を挙げた。

2013年春 ふたりはディズニーリゾートにて挙式

「私たちには結婚をするという意識はなかったんですよ。法的に同性婚が認められていないので、結婚しようというつもりはまったくなかったよね。ただ結婚式をしたいと思っただけで。結婚式を挙げる前々日にテレビの取材を受けていて、『いよいよ結婚ですね』と言われて、あれ?私たち結婚しないよね、と。同性婚は認められていないのに、周りが、私たちが結婚すると思っていることにびっくりしました」(東)

結婚式をするといっても、2人のなかに「結婚する」という意識はまったくなかった。結婚式でたくさんの人たちに祝福されたことではじめて、2人のなかに「結婚する」という意識が芽生えた。

「結婚おめでとう!と言われて、徐々に実感していって……自分たちがやっていることは結婚なのだということに、後から気がついたんです。できないと思い込んでいる分、できると思えるまでに時間がかかるんですよ。今はもちろん結婚していると思っていますよ」(増原)

しかし、2人の意識のなかでは「結婚」していても、社会制度からはじき出されてしまうことがあった。不動産や病気、相続など「戸籍上の家族」を基に作られた社会制度の狭間で、いざという時や人生の節目で困ることがある。だからこそ、2人にとって同性カップルを「結婚に相当する関係」と認め、「パートナー」として証明する「パートナーシップ証明書」は大きな価値がある。

「引っ越し時の転出・転入届けについて、家族として届け出を出したことがこれまで一度もなかったのです。いくら自分たちは家族だと思っていても、社会的に認められていないことで、残念な思いをすることもあったし、常に緊張していました。渋谷区役所の仮庁舎の戸籍課で手続きしたときは、今までできなかったことができるようになるということにハッとして、もう本当に感無量でした」(東)

2015年11月5日、「パートナーシップ証明書」を第一号として受け取った2人は仲間に囲まれて涙を流していた。

「セクシュアリティで悩んでいた時期が長かったので色んなことが蘇って、感動的な瞬間でした。まさか社会的に家族として認められる日がくるなんて思ってもみなかったから。こんな将来は到底想像できなかった」(増原)

<後編に続く>

取材・テキスト / 徳瑠里香
写真 / 高木孝一

株式会社トロワ・クルール
http://www.3couleurs.co.jp/

元タカラジェンヌ東小雪の「レズビアン的結婚生活」ブログ
http://koyuki-higashi.blog.jp/

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