クライミングは、自然の岩壁を登る「ロッククライミング」や、室内の壁を登る「ボルダリング」や「リード」などに代表されるスポーツ。都市部では近年、ボルダリングジムがエクササイズとして大きな人気を集めている。ボルダリングは「スポーツクライミング」と呼ばれ、世界中で様々な大会が開かれるほどの競技人口を持つ。そして2020年の東京オリンピックの追加種目として、現在IOCへ提案されている。

世界的な関心が集まるスポーツクライミング界で今、日本のアスリートとして大きな期待を背負っているのがプロフリークライマー・野口啓代だ。野口は2005年から合計11回開催されているボルダリング・ジャパンカップで通算10回もの優勝を成し遂げ、続くIFSC クライミングワールドカップでは通算4回もの年間優勝を達成している。日本におけるスポーツクライミングの歴史を牽引してきた“女王”だ。世界を舞台に繰り広げられるクライミングの醍醐味とは何か、そして野口はいかにして女王になったのかを聞いた。

高く、広い、クライミングの世界

野口にとって、スポーツクライミングが2020年の東京オリンピックの追加種目として提案されたことは、喜びと驚きが入り混じった出来事だった。

「私がクライミングを始めた頃は、そもそもクライミングがスポーツだと認識されていませんでした。いわゆる『岩登り』、趣味のアウトドアとして親しまれていた印象でしたね。私自身も最初はスポーツとしてではなく、趣味として楽しんでいた。爆発的にクライマーが増え、世界に認知されるようなスポーツになるとは思ってもいなかったので、本当にビックリしています」

クライミングの世界は多様だ。クライマーによって登り方、戦い方が異なる。野口のように、スポーツクライミングの世界大会で優秀な戦績を残し、自らのアスリートとしてのランクを上げることに挑戦し続ける「コンペティター」として生きるクライマーもいれば、まだ人間に登られていない自然の岩壁を探して開拓する「アルパイン・クライミング」などをライフワークとする「ロッククライマー」も存在する。

コンペティターが行うスポーツクライミングは、競技的側面が強い。たとえば2020年の東京オリンピックに採用されれば、競技用に設定された人工岩壁で「リード」、「ボルダリング」、「スピード」の三競技で競われることになる。いずれの競技でも、あらかじめ決められた登り方「クライミングルート」をいかに攻略するか、知性と体力、技術が同時に試される点は共通するが、ルールと評価方法が異なる。

リードは、ハーネス(天然の岩壁を登る「ロッククライミング」でも使われる安全ベルト)をつけ、ロープを使い、少なくとも高さ12メートルの人工壁を、与えられた課題を登り、その高度を競う。スピードは、いわば“登る陸上競技”。ハーネスとロープを使い、高さ10〜15メートルの人工壁をいかに早く登れたかを競う。そしてボルダリングは、ロープ等は使用せず、人工壁を素手で登る。高さ4〜5メートルの高さの人工壁に設定された課題へのパフォーマンスで競われる。

「フリークライミングは、自分の技術と経験がそのまま結果に反映されます。競技では与えられた課題を登りますが、課題を正しく理解できていなければ、戦略が立てられません。トレーニングを通した研究と試行錯誤が大切です。また、瞬時に次の一手を判断して登っていく中でも、冷静に自分の身体の状態を理解していなければなりません。

集中して登っていると、手をすべらせて落ちてしまう時、頭が真っ白になってしまうのです。その時、選手生命を損なってしまうような怪我をしないように身体を守れるのも、クライマー自身なのです。だからこそ、自分の手でベストの正解を選び、繋いで、登れた瞬間は格別に嬉しい。フリークライミングは自分の成長を、自分の身体いっぱいで感じることのできる登り方です」

プロフリークライマー 野口啓代さん

また、コンペティターとして生きる野口も、自然の岩壁に挑むことがある。世界中にあるさまざまな岩壁には、初登者がつけた名前と難易度の世界的な基準『グレード』がつけられているのだ。

「私は世界中をめぐって、自然の岩壁を登り、自分のスキルアップに活かします。高い岸壁でも簡単に登れるものがあったり、低くても難しかったり。高いグレードに挑戦する楽しみもあれば、ただ自然の岸壁が見せる表情に惹かれて登ってみたいと思うこともあります。それらすべてが、コンペティターとしての自分をも成長させてくれます」

ゲームセンターが繋いだ、野口とクライミングの世界

取材の待ち合わせ場所は茨城県の自然豊かな街外れにある『野口牧場』。野口の実家は、牧場だ。田舎道を走る車の窓を少し開けると、どこか懐かしいような牛舎の匂いがしてくる。牛は大きな動物だ。牛舎も、酪農につかわれる様々な機器も、自然と巨大になる。毎日、それらの酪農機器や積み上げられた干し草、古びたサイロを見上げながら牧場を走り回る、それが野口の幼い頃の日常だった。そして牧場で生まれ育った野口がクライミングと出会ったのは、小学校5年生の頃に家族旅行で行った、グアムだった。

「グアムでたまたま立ち寄ったゲームセンターにクライミングの人工壁があったんです。もちろん私はクライミングの存在すら知りませんでした。牧場で育った私は、幼い頃から“やんちゃ”そのもので。木や牛舎の屋根に登ったり、牧場でかくれんぼをして毎日が過ぎていくような子どもでしたから、自然とクライミングも大好きになりました。スポーツというより、いつもの木登りと同じように楽しく登った、というのがクライミングの初体験でしたね」

ご実家牛舎にて

野口家はこのグアム旅行をきっかけにクライミング一家となる。父と妹もクライミングにハマり、3人は当時、つくば市に新しくできたクライミングジムに通い始めた。当時の野口にとってクライミングは、月に何度か登る程度の、楽しい趣味だった。しかし野口は、着実に巨大な可能性の片鱗をうかがわせる成果を出し始めた。「当時はまだまだ競技人口が少なかったですから」と野口は話すが、ユースのクライミング大会や近場で開催されていたコンペなどに参加すればたちまち優勝を繰り返した。そんな野口を身近で見ていた父は、次第に大きな期待を寄せるようになる。

野口が中学校へ進学した13歳のある日、「学校帰りではなかなかジムにも通えないだろう、大会に向けてここで練習しろ」と、父が古い牛舎の片隅に、手製のプライベート・クライミングジムをつくった。

「最初は3人で楽しく練習をしていたのですが、妹は中学校の部活が楽しくなってクライミングから遠ざかり、父は肩を怪我して登れなくなったりと、次第に野口家でクライミングをするのは私だけになりました。自分が登れなくなっても、父は大会を探してきては『次はこの大会出ようよ』と、私に勧めてきます。そんな父を見ていて私は『これは期待されているんだな』と子どもながらに感じるようになりました。もちろん、ふつうの中学生のように、いろんな部活を経験してみたかったのですが、引くに引けなくなっていましたね」

3度の改造を経たプライベート・クライミングジム

その後、野口は15歳という若さで日本選手権(リード)第2位に輝く。野口の可能性を開花させたのは、プロのインストラクターでもなく、運命的な出会いでもなく、父からの期待と、純粋に登ることを楽しむ気持ちだった。それは、野口の可能性を開花させるための水であり、土であり、今でも人生を照らし続ける光になった。

父のつくったプライベート・クライミングジムは、野口とともに成長してゆく。壁を改造し、高い難易度の課題に挑戦し続けた。野口はこの牧場の片隅で、世界の岩壁に挑む女王へと成長していったのだ。

<後編に続く>

取材・テキスト / Akihico Mori
写真 / きるけ

野口啓代 公式サイト
http://akiyonoguchi.com/

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