2014年、移籍先未定ながら、海外でプレーするという夢を叶えるために10年間プレーしたアルビレックス新潟を退団した田中亜土夢。日本代表歴のない田中の海外での知名度は、決して高いわけではない。年齢も、若くはない。オファーが来るかどうかはまったくの未知数。あるのは、自分を信じる気持ちだけだった。

しかし彼はいま、北欧・フィンランドの1部リーグで活躍する選手となっている。しかも、10番という大切な背番号を任されて。彼はいったいなぜ、大きなリスクを背負ってまで一歩を踏み出し、スタートラインに立つことにしたのか。安定をかなぐりすてて自分の夢に向かった、その原動力に迫る。

移籍先未定でも、コンフォートゾーンを飛び出した

アルビレックス新潟で10年間プレー。2015年2月、念願の海外移籍を果たし、フィンランド1部リーグでもっとも強豪と言われるHJKヘルシンキに移籍した田中亜土夢。一見すると、最近では珍しくなくなった日本人選手の海外移籍のように思えるかもしれない。しかしそれは、文字通り退路を断った、常識的とは言えない「挑戦」だった——。

「次のチームも決まっていないのに、アルビレックス新潟を退団したんです。そのままどこからも声がかからなければ、次のシーズンはプレーできないかもしれない。それでも海外移籍に賭けるために必要な決断でした」

サッカー選手 田中亜土夢

仕事で言えば「無職期間」をつくることになるが、ピークを迎えたサッカー選手にとってその重みは一般人の比ではない。無謀とも言える挑戦。オファーを待っている間、恐怖心はなかったのだろうか?

「自分で決断したことだし、なによりオファーがあると確信を持っていましたから。そういうことで悩む時間があるなら、練習してもっと上手くなりたい。だから、『空白期間』も練習だけは続けていました。オファーしてくれたチームで活躍していいニュースを日本に届けるためにも、しっかり準備しておこうと思って。ただ、『無所属』の僕にはホームのグラウンドがない。母校のグラウンドで練習させてもらうこともありました」

アルビレックス新潟では、十分な実績もある。地元新潟市出身ということで人気も高く、サポーターから深く愛されていた。企業のCMにもたびたび起用された。ここに残れば、人気選手として心地よくプレーできただろう。「コンフォートゾーン(心地いい場所)」から抜け出してチャレンジングな選択をするのは、あまりにもリスクが高いのではないだろうか?

「挑戦の理由をひと言で言えば、常に上を目指して成長していきたいから。快適な環境に甘んじていては、いずれ頭打ちになってしまう。挑戦することが、サッカーにとっても人生にとっても大切なことだったんです。

あとは、10年という節目であることも大きいですね。移籍する3、4年前から海外チームへの憧れはありました。でも、心の準備ができていなかった。そのときだって、自分さえ本気であれば今回と同じように挑戦できたのに踏み出せなかったんです。プロ10年目の28歳にして、ようやく心が決まりました」

たしかに、中田英寿も本田圭佑も、海外移籍に挑戦したのは21歳。田中の28歳という年齢は、やや遅く感じられる。

「もう少し早く飛び出していれば、と思う自分もいます。けれど、日本で10年結果を出し続けられたことが僕の自信になっている。2014年のシーズンが終わったとき、心の底からこう思えたんです。『自分は、海外でもプレーできる』って」

背番号10、エースナンバーを任されて

「オファーは絶対に来る」という田中の確信は正しかった。HJKヘルシンキからのオファーを受け、入団を決意。念願の海外移籍でチームから託されたのはエースナンバー、背番号10。彼はその期待に応え、デビュー戦でのゴールにはじまり、シーズン8ゴールという好成績を残す。

当たり前だが、ヘルシンキの中で、田中は「外国人選手」だ。どんなプレーをするかお手並み拝見という目で見られるし、結果を残さなければ試合にも出られなくなる。契約もすぐに打ち切られてしまうだろう。プレッシャーはなかったのだろうか?

「もちろんリスクやプレッシャーは大きくなったけれど、その分、ゴールを決めることをより強く意識できるようになりました。プロになってからいちばん多く得点した1年だったし、ベストイレブンにも選ばれた。リスクやプレッシャーを背負っていることが、確実にプラスに働いていますね。

でも、反省点もあります。チャンピオンズリーグは予選敗退。チームのリーグ連覇も6で途絶えてしまった。10番を背負っている責任を感じます」

とはいえ、チームが優勝を逃したのは、必ずしも田中の力不足に起因するわけではない。リーグ序盤は首位を快走していたものの、中盤以降はチームに怪我人が増え、空気も停滞。あっという間に3位に転落した。その頃には、チームメイトと意識のギャップも感じるようになっていた。

「ホームの試合には出るのに、アウェイの試合だと仮病を使って休む選手がいる。考えられないでしょう? 僕は、背番号10を任されながら、そこでチームメイトにガツンと言えなかった。そこで声を挙げればメンバーの意識が少しでも変わったかもしれないのに、いま思えば、新参者の外国人選手として遠慮があったのかもしれません。そこは、本当に悔やまれます。

そうしてチームの雰囲気がどんどん悪くなる中で、せめて自分は日本にいるときと同じようにプレーするしかないと考えるようになりました。中心的な役割を期待されているんだから、とにかく得点を入れよう。練習も先頭に立って、試合と同じレベルで厳しくやろう。そう吹っ切れてからは、試合の中でもキレが増したと思います」

HJKヘルシンキ 背番号10番を背負う

田中の背中をチームメイトは見ていたのだろうか。ボロボロだった状況から一転して、後半にかけてチームはみるみる再生。結果的に中盤戦の負けが響いて3位から浮上することはできなかったが、リーグが終わるころには「負けなし」の状態になっていった。

田中は、どちらかと言えば寡黙なタイプだ。英語もフィンランド語も得意ではない。しかし、田中の「10番」は、チームメイトに言葉よりも多くを語ったはずだ。日本人らいし真面目さと一本気な気質、そして前のめりに挑戦する姿は、今後のチームにも大きな影響を与えるだろう。


<後編に続く>

取材・テキスト / 田中裕子


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