レディー・ガガやVERBAL(ヴァーバル)など、国内外のトップクリエイターたちから熱視線を浴びるファッションデザイナーがいる。彼の名前は、江幡晃四郎。自身の名前を冠したブランド「KOSHIRO EBATA(コウシロウエバタ)」を展開するほかにも、数々の著名クリエイターの衣装製作などを手掛けている。

江幡が歩んできたファッションデザイナーとしての道は「異質」の一言に尽きる。服飾系の専門学校を退学した約半年後には、若干19歳にして高円寺に自身のショップを出店。彼の才能と人柄に引き寄せられるかのように多くの人が集まり、大きな渦をつくり上げている。その中心にいる江幡は驚くほど穏やかで、淀みがない。果たして、この渦の行く先には何があるのだろう—

王道なんて知らなかった

「あ、すみません。ちょっと……コンビニ行ってきていいすか?」

取材スタッフとの顔合わせを済ませると、申し訳なさそうに彼が言った。4月下旬の夕方6時、高円寺。取材場所となったのは、江幡とアーティスト集団「Chim↑Pom(チンポム)」が運営するギャラリー「GARTER(ガーター)」だ。高円寺駅の南口にある商店街に面した「キタコレビル」内に、彼のアトリエと「GARTER」がある。

5分も経たずに戻ってきた江幡の手には、500ml缶のビールが入ったビニール袋が。早速、缶を取り出してはプルタブを開け、口へと流し込む。大胆不敵な性格なのか、思っていることを話しやすくするためなのかはわからない。仕事終わりには、こうして酒を飲むのだという。

彼のインタビューは、その注目度とは裏腹にあまり世に出ていない。一体、彼は現在に至るまでどのような道を歩んできたのだろうか。質問を投げかける。ゆったりとした、それでいてどこか人懐っこい口調で江幡は話し始めた。

「高校を卒業した2008年に、名古屋から上京して、文化服装学院に行って。……で、半年ぐらいで除籍されるっていう。中退? じゃないです。お金、払わなくって。授業料を踏み倒してたら、除籍になりました。『自ら辞めて〜』とかじゃない。恥ずかしいやつです」

そう言って、江幡は笑った。「学校はめちゃくちゃ好きだった」と振り返る一方で、金銭的に卒業まで在籍するのは難しいと感じたという。辞めるなら早いほうがいいと考えた結果、夏休み明けに支払う「学費用の貯金」は「海外旅行の資金」へと変わった。結果、同年11月に除籍処分を受ける。

ファッションデザイナー 江幡晃四郎

江幡が在籍していたのは、服づくりを総合的に学べる「服装科」のコース。ファッションデザイナーになるには、専門学校や大学で服飾について学び、メーカーに就職するのが一般的だ。その後、デザイナーのアシスタント業務などを経て、デザイナーになる。つまり、専門学校を辞める時点で王道から外れることになるが、不安はなかった。

「逆に、何も知らなかったからだと思います。僕、そのとき、服をつくるのってデザイナーだけと思ってたんですよ。パタンナー(※デザイン画を服にするための型紙をつくる人)とかも、周りはみんな知ってましたけど、自分だけ知らなくて。そんな感じだったから、学校を辞めて思ったのは『とりあえずアトリエ借りればいいかな』って(笑)。

アトリエを構えて服をつくればデザイナーになれるのかなっていう、ふわふわした感じです。ひどいですよね。勢いで動いてましたもん、完全に。あとは、実家を離れたくて東京に出てきたので、面目を立てるためにも服は続けなくちゃと思って」

周りにいる誰かに突き動かされてきた

そうして、2009年の4月には現在の「キタコレビル」にアトリエ兼ショップ「GARTER」をオープン。キタコレビルの近所に住んでいた江幡が、当時から親交のあった同ビル内のショップオーナーに物件を紹介してもらったのだ。

「親に話しても、特に引き止められませんでした。『勝手にすれば』という感じで。商店街に長く住んでいる人が、一人だけ『やめとけお前! 何してんだ!』って心配してくれましたけど、いやー、やりたいんすよーって」

無謀なようだが、江幡は「物を売る才能があるなって、高校時代から思っていて」と話す。高校時代、古着好きを生かしてを服を安く仕入れてはネットオークションに出品。バイヤーとしての素質があったのか、買値の何倍もの売値で落札されて利益を得ていた。専門学校の入学資金も、そうして自ら捻出していったというのだから驚きだ。

そうした経験を生かして、オープン当初の「GARTER」のラインナップは半分が古着。「最初の頃は服づくりの知識も経験も乏しかったんで、手っ取り早くオリジナリティを出したかった」という理由から、4割は古着のリメーク、残りの1割は江幡のオリジナルの服を販売していた。

「特に『これをつくりたい』という思いは、なかったと思います。ただ、『何かをつくりたい』っていう欲だけはあって。それだけは、とにかくありました」

学生生活は早々に手放した江幡だが、「GARTER」は違った。テナント代を払うために、江幡は当時住んでいた自宅を引き払い、友人宅に居候。ショップの営業時間外は、コンビニエンスストアで早朝勤務をしていた。医薬品の安全性をチェックする治験のアルバイトは、高収入を目当てに何度も参加。そうまでしてこの場所でやりたいことがあったのですね、と言うと「……ってことですね、たぶん」と控えめな反応が返ってきた。

取材中、彼が特に楽しそうに話していたエピソードがある。それこそが、江幡が「GARTER」を手放さなかった理由の一つだろう。「キタコレビル」が、今のような人気を集めるに至った背景を尋ねたときのことだ。

「ここを借りることになったとき、ビルの中に入ってるショップ(※『素人の乱 はやとちり』『NINCOMPOOP CAPACITY(ニンカンプープ キャパシティ)』)のオーナーと僕で、ビルに名前を付けたんですよ。『ラフォーレ原宿』みたいな(笑)。それが『キタコレビル』って名前で。

その3人でブログを始めたんですけど、もう無茶苦茶で。服屋のブログなのに『今日はかくれんぼをしました』とか。あと、ネットラジオをしたり。そしたら、なぜかファッションカテゴリーのランキングで1位になっちゃって。それで、『ブログを見てきました』って人たちが増えていったんですよ。あとはイベントもしたり。その内、メディアにも出るようになって」

こういった話を見る限りでは、自由気ままな若者という印象を江幡に持つ人もいるかもしれないが、日々、見えないところでクリエイションに励んでいた江幡。徐々に、しかし確実に、服づくりに必要な知識と技術を蓄えていった。転機になったのは2011年。紹介すべき2つのトピックスがある。

一つは、冒頭でも紹介したレディー・ガガ。同年6月、彼女が来日記者会見を開いた時に着用していたのが、江幡がリメイクした革ジャンだった。その頃の『キタコレビル』には、アーティストのファレル・ウィリアムス、ファッションデザイナーのジェレミー・スコットらが来日時に訪れるなど、知る人ぞ知るファッションスポットとなっていた。その後、世界的なファッションアイコンの影響で、「キタコレビル」がより多くのメディアに取り上げられるようになったのは言うまでもない。

もう一つは、江幡がファッションブランド「GARTER」のデザイナーとして、初の展示会を行ったことだ。現在ではコンスタントにコレクションを製作・発表している江幡だが、最初のコレクションづくりは人の勧めを受けてのことだった。

2016AW Collection 螺旋-SPIRAL-

「GR8(グレイト)っていう、ラフォーレ原宿に入ってるショップを手がける久保さんという人に勧められて。当時からお付き合いのあるショップだったんですけど、『展示会やりなよ。つくったら買うから』と場所もお金も用意してくれて。もう、神様みたいですよね。それで、初めてコレクションという形で服をつくることにしたんです」

周りの人に突き動かされているようだ、と言うと「いやー、その通りですね。僕一人だと、何もやってないですよ。本当に」と笑い、缶ビールをあおった江幡。取材中も「キタコレビル」には続々と彼の仲間たちが訪れては、何か作業をしていた。彼の周りにはいつも誰かがいる。そんな江幡を語るにあたって外せないのが、「THE HAPPENING(ハプニング)」というファッションプロジェクトだ。

<後編に続く>

取材・テキスト / 石川裕二(石川編集工務店)
写真 / 山田敦士

Garter公式サイト
http://www.garter-tokyo.com/

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